整理収納アドバイザー ポレポレ日記

40代 おじさん整理収納アドバイザー

物事をシンプルにするために

「整理」とは「必要なモノだけにする」ことだと僕は考えています。

そして、身の回りにあるモノを必要なモノだけにすることで「心地良い毎日」を過ごすことが出来ると考えています。

本当に必要なモノは何なのかという事とじっくり時間をかけて向き合うことで、本当に必要なモノが見えて来るようになります。

日々生活していく中で、その生活の中に不要なモノが混じっていると生活は乱れてくるようになると思います。

所有するモノが多くなるとモノが散乱しやすくなります。その時必要のないモノが視界に入ることで心も落ち着かなくなります。

そしてその結果、本当に必要なモノが見えなくなり、生活は大きく乱れてくるようになるのです。

それは目に見えるモノだけでなく、目に見えないモノも同じで、頭の中の目に見えないモノも必要なモノだけにするべきだと僕は考えています。

頭の中に入れることが出来るモノの量には限界があります。人によって違いはあるのかもしれませんが、誰にでも限度はあるように思います。

因みに僕の頭の中に入るモノの量は人より少ないと思います。人としてだけでなく、頭の中のキャパも小さい方だと自分を分析しています。(更に僕は体も小さい方です...小さなおじさんです...)

でもそんな僕でも毎日「心地良いな~」と感じる時間をたくさん取れるようになってきました。それはもちろん「整理・収納」を意識して生活しているからだと思っています。

日々の生活の中で、常に自分にとっての必要なモノは何なのかという事と向き合っています。そして「整理」を行うよう心掛けています。

不要なモノがあった際には、すぐに処分するようにします。

ゴミ出しなどのタイミングが合わない時には視界に入らない場所で保管するようにしています。忙しくてそれが必要か不要か判断できない場合はとりあえずの場所で保管するようにしています。

視覚から入ってくる情報の影響はとても大きいものです。その情報量を少しでもコントロールするようにしています。そうすることで、モノが散乱する状況を防ぐようにしているのです。

毎日「整理・収納」を意識して生活することで、僕の生活では必要なモノだけになってきているように思います。家の中にあるモノも、職場にあるモノも、恐らく他の人と比べるとモノの総量は少ないように思います。

仮に今日僕にもしものことがあったとしても、半日もあれば僕の部屋にあるモノは片づけることが出来るように思います。それくらいのモノしか所有していません。

頭の中にあるモノも少ないように思います。意識的にすべきことだけを収脳するように心掛けているからです。

社会で生活していると本当に色々なことがあります。そして、そんな色々な事からたくさんの影響を受けてしまいます。良いことも悪いことも含めてです。

そんな社会に流されないようにするために自分に出来ることがあるとするならば、僕は「整理・収納」だと思っています。そして「整理・収脳」だと思っています。

「整理」を通して、自分の持ち物や頭の中を出来るだけシンプルにしていきます。そうすることでやるべきことが明確になり、心に余裕ができるようになると僕は考えています。

「整理」することは物事を「シンプル」にすることではないかと思います。複雑に見えているコトやモノも意外と「整理」していくと「シンプル」なのかもしれません。

物事をシンプルに考えることが出来るように、今日も「整理・収納」を大切にしながら頑張ろうと思います。

 

消費して「整理」

昨日は家に何も持ち帰ることなく一日を過ごすことが出来ました。

仕事帰りにスーパーに寄って晩酌用のお惣菜でも買おうかとか考えましたが、冷蔵庫の中に食材があることを思い出し、スーパーに寄らずに帰ることを決めました。

僕は食材に関しては捨てて「整理」するのではなく、消費して「整理」することを徹底しています。

それはただ単に食材がもったいないとか、食材を大切に考えるという事だけでなく、自分が持っている食材の量を把握しておくという事を大切にしたいという思いからしていることでもあります。

たくさん買い込んでしまい、腐らして捨ててしまう...。

それは食材や生産者に対してのリスペクトの気持ちに欠けることだろうし、何よりも自分の所有しているモノの量を把握できていないことにも繋がります。

食材も自分が所有しているモノの一つです。僕は自分が所有する全てのモノの量を常に把握しておきたいと考えています。そして、自分にとって必要なモノが何なのか、何故それが必要なのかということと常に向き合えるようにしたいと考えています。それが僕にとっての「心地良い暮らし」に繋がることと考えているからです。

だから食材は食べることが出来る分だけ、消費出来る分だけを買うようにしているのです。

帰りのバスの中で冷蔵庫の中の食材を思い出します。昨日であれば、白菜、餃子、豚肉、たまねぎ、しめじがありました。料理が得意でない僕でもそれだけの食材があれば水炊きくらいは作れます。そして、最近ハマっている「聖護院かぶらのもみじおろしぽん酢」があることを思い出し、テンションも上がってしまいます。

家に着き、シャワーを浴びる前に土鍋に昆布を入れ出汁を取ります。「朝からしておいたら良かったな~。」とか思ったりもしますが、そこはあまり深く考えないようにします。

そしてシャワーを浴びた後に土鍋に火をかけながら野菜を切っていきます。

なるべく洗い物を減らすことを考え、鍋に入れる順番で野菜を切り、ざるに入れていきます。きれいに洗ったモノから土鍋にインです。

たまねぎ→白菜のかたい部分→白菜の葉の部分→しめじ→餃子→豚肉の順番です。

そして使わなくなったモノは鍋に火をかけながら片づけていきます。食べ終わった後でまとめて片づけることにしてしまうと気持ちよく食べることが出来ません。やるべきことはなるべく出来る時に「整理」するが僕の考えです。

そして、サッカーのキックオフの時間とほぼ同時に鍋の準備が完了しました。

残念なことに日本代表は負けてしまいましたが、平日の夜に鍋を食べながら大好きなお酒を飲み、サッカーの試合を見る。僕にとっての「心地良い時間」です。

何となく過ごしていて出来ている「心地良い時間」ではないように思います。

常に「整理・収納」を意識しているから出来ていることであり、常に「整理・収納」と「整理・収脳」を繋げて考えているから出来ていることのように思います。

冷蔵庫の中の食材の量を常に把握できる量にしています。そして、バスの中や歩いている時には帰ってからすることを常にシュミレーションしています。

「家に帰ったらシャワーを浴びる前に鍋に昆布を入れておこう。」や「ドライヤーする前に鍋に火をかけておこう。」、「たまねぎに火を通している間にガスコンロを出しておこう。」などのような感じで常にスムーズに物事を運べるように考えながら行動しています。

それは帰ってからの行動だけでなく、日々過ごす全ての物事でも同じようにしています。仕事でも常にシュミレーションをしながら行動をしています。それが「心の余裕」に繋がっているのかもしれません。それがモノを増やさないことに繋がっているのかもしれません。

そんな時間を過ごすことが出来ていました。そして、モノを一つも増やすこともなく過ごすことが出来たと充実感を抱えながら鍋を食べていると...「ピンポーン♪」...荷物が届きました。

梅雨入り間近という事もあり、先日ネットで購入していたレインブーツが届いたのです。

よく考えて購入したモノではありますが、「このタイミングで届くんかい!!」とか思いながら段ボールのふたを開けます。空き段ボールもモノです。中には緩衝材というモノも入っています。領収証も入っています。そしてお目当てのレインブーツも入っています。

モノを増やさないようにする...中々難しいことだなと思う夜になりました。

マスク

最近の小学校では「マスクはしない」と指導する場面が出てきました。

通学の時間と体育の時間です。

暑くなり出すこの時期、熱中症になるリスクが高いという理由からだそうです。

実際ここ最近、体育の授業中にマスクをしたままリレーの練習をしていた子どもたちが熱中症の症状を訴え、病院に搬送されたという事案が発生しているとのことです。重症の子どももいるとのことです。

そりゃそうなると思います。この時期だけでなく、寒い冬の時期でもマスクをしていると息苦しく、運動すると呼吸がしにくくなります。寒い冬でもそんな感じなのだから、気温が上がり始めているこの時期やこれからの夏の時期はそういった状況になることは簡単に想像できます。

でも、コロナ禍の影響によりマスクをつけるようになったのは今年からではありません。僕が記憶している限りでは、2年前の2月位からだったのではないでしょうか。

その時期からマスクをつけることが日常になり、マスクをつけるのが当たり前の雰囲気が社会の中に生まれだしました。マスクをしない人は感染対策が出来ていない、いけない人という雰囲気が社会の中にはあるように思います。

そんなマスクを付け、暑い時期を2年間も乗り越えてきました。でも、熱中症があったのは今年に入ってからなのでしょうか?

僕は違うように思います。大きく報じられていなかっただけで、熱中症は過去2年間でもたくさんあったように思います。そしてコロナの感染者数の影に隠れて、他にもたくさんの弊害があったように思います。

丁度2年前の5月。僕も熱中症の症状が出たことがありました。

きっとマスクをすることに慣れていなかったのだと思います。買い物に出かけていた先で、急に頭痛が襲ってきました。そして気付いた時には体の右半分にしびれが出てきて、歩くのも困難な状況になってきました。

すぐに近くにあったドラッグストアに入り、スポーツドリンク、塩分の入ったタブレット、冷えピタを購入し家路を急いだことを覚えています。

家に着いてからも体中に保冷剤を置いて部屋を涼しくして寝ていました。病院に行くことはしませんでしたが、かなりしんどい状況だったように思います。

そこから1ヶ月位は頭痛が取れることもなく、その頭痛に苦しめられていたのを今でも覚えています。

そんなことがあった僕であったため、熱くなり出す時期にはいつも熱中症のことが頭をよぎっていました。感染症対策も大切かもしれませんが、熱中症対策も疎かにしてはいけないと常に考えていました。

教室にいる子どもたちにも「息苦しくなったら人のいないところでマスクを外してもいいんだよ。」と常に声をかけていました。

でも、このマスクをすることが当たり前になった2年間で、子どもたちはマスクを取ることを嫌がるようになっています。

顔を見られることを極度に嫌がる子もいます。感染するかもという思考からマスクを取ることに不安を抱える子もいます。

この2年間、散々「マスクはするもの」と言い続けた大人たちにより、子どもたちはマスクを外せない子どもたちになっているように思います。そして、自分が取れないだけでなく、他の人にもマスクを強要するような雰囲気にもなっています。

実際、僕が子どもたちへの指示を終え、活動していた際に、少し息苦しさを感じたので距離を取ってマスクをずらしていると、「先生がマスクを外している~。ダメなのに~。」と一人の子どもが大きな声で話し出しました。そして数名の子どもたちも、「ダメなのに~。」となっていました。

事情を話しますが、もうすでに「マスクを外すことはダメな事」となっている子どもたちの意識を変えることは難しいことになっているとその時感じました。

こういった意識を子どもたちに作ってしまった原因は大人にあるように思います。自分も含め、全ての大人に原因があるように思います。社会にそういった雰囲気を作った大人に原因があるのです。

それなのに今更「マスクをしない」と指導する場面が出てきているのです。過去2年間と大きく状況は変わっていないのに...。

少し話が飛躍するのかもしれませんが、過去の日本の教育にも通じるものがあるように思います。戦争が正しい事と教育していた時代もありました。しかし、時代が流れていく中で戦争はダメな事となっています。

戦争はしてはいけない事です。人の命をたくさん奪う戦争はあってはならない事です。

しかし、時代や人々の考え方により、それが正しい事となっている状況があるのです。

戦争とマスクの話では別ものなのかもしれませんが、子どもたちの様子を見ている限り通じるものがあるようにも感じたりします。

今の時期のマスクは本当に必要なのでしょうか?マスクをすることによる弊害はないのでしょか?

本当に必要なこと、大切にしないといけないことは何なのか。

そういったこととも「整理・収脳」をして向き合えるようにしたいと思います。

カバンを持たない

僕はなるべくカバンは持ち歩かないようにしています。

仕事に行く時も、休みの日に外出する時もなるべく持ち歩かないようにしています。

持ち物はズボンの右のポケットに財布、左のポケットにスマートフォン、お尻のポケットにハンカチを入れるようにしています。本はだいたい手に持っているかお尻のポケットに入れたりしています。

どうしても必要なモノがある時にはリュックを背負うこともありますが、基本カバンは持たずに、手ぶらで外出するようにしています。

こういったスタイルでいるのはいくつか理由があるのですが、一番の大きな理由は「持ち歩くモノは必要なモノだけにしたい」ということです。

このかスタイルが確立したのは割と若い時です。

会社勤めをしていた営業マン時代に佐藤可士和氏の「超整理術」という本を読んで影響を受けたのがきっかけだったように思います。

若かった当時の僕は、毎日重たいカバンを持って通勤をしていました。カバンの中には必要なモノも入ってはいましたが、それ以上に不要なモノもたくさん入っていたように思います。家に帰っても外出先でも一度も出すことがないようなモノがたくさん入っていたように思います。

当時の僕はそういったことに違和感を感じることもなく、それが当たり前だと思っていました。そして、そんなたくさんのモノを持ち歩いている僕の頭の中も、カバンの中同様たくさんのモノが詰め込まれていたように思います。

心に余裕がなく、いつも何かに追われている。そんな毎日を送っていました。そしていつも疲れていたように思います。

別にたくさんの荷物を入れた重たいカバンを持ち歩いていたから疲れていたというわけではありません。重たいカバンとはいえ、体力が奪われるほどではなかったように思います。

ただ、たくさんの荷物が入っているそのカバンの中にあるモノが本当に必要なモノなのかという事に気が回らないくらい余裕がなかったし、一つ一つの物事のそもそもに立ち返る発想すらなかったのだと思います。

周りにいる人と同じようにすることが普通だと考えていた当時の僕。カバンを持つことも同じで、周りの人が持っているから自分も持っていることが当たり前になっていました。それが自分の生活や性格に合っているかどうかではなく、周りの人や世間に合わせることが中心になっていました。

きっと無理をしていたのだと思います。「そういうもんだ」と自分に言い聞かせていたのだと思います。それはカバンを持ち歩くことだけではなく、他の全ての物事に当てはまっていたように思います。

だから心に余裕がなかったのだろうし、そもそもに立ち返ることも出来ていなかったのだろうと思います。

カバンを持ち歩くことに関しては、僕の考えや生活スタイルにはハマっているだけで、それが全ての人にハマるわけではないように思います。

大切なのは、それが自分に何をもたらすのかという事と向き合うことです。その物事のそもそもに立ち返り、それが本当に必要なのかということに立ち返ることです。

そういった思考になることが、その人の心の余裕に繋がるのだと思います。そしてその人の「心地良い暮らし」に繋がるのだと思います。

始めた当初はカバンを持たない事で、「他の人がしていない事を自分がしている!!」と思い、粋がっていたように思います。

でもそれを続けていくことで、それが本当に自分の生活や性格に合っているのか、それが「心地良く過ごす」ことに繋がっているのかという事と向き合うようになってきました。当時の僕はそれを意識的ではなく、無意識に行っていたように思います。

「持ち歩くモノを必要なモノだけに」という意識ではなく、ただ無意識に「持ち歩くモノを減らす」という思考になっていたのだと思います。

でもそれは、持ち歩くモノが少ないことで、頭の中のモノも減るという事を実感していたからだと思います。無意識にそれを感じることが出来ていたのだと思います。

でも今の僕はそうではありません。そういった無意識をある程度、意識化して行動するようになっています。

無意識を意識化することで更に「心地良く過ごす」ことが出来ているように思います。

それは自分の考えを視覚化しているからです。ブログに自分の考えていることや思いを「言葉」として綴ることで意識化することに繋がっているように思います。

そしてカバンを持たない事は、「モノを増やさない」ことにも繋がっています。入れるモノがないことでモノが増えることを物理的に防ぐことにも繋がっているのです。

カバンを持ち歩かない事は、ただ単にモノを入れるモノがないという事だけではなく、「必要なモノだけを持ち歩く」という思考に繋がっています。

そしてそれが「心地良い暮らし」に繋がっているように思います。

モノを増やさない工夫

過去の僕は無駄な買い物が多い人でした。

用もないのにお店に入り、何かを購入してしまう。そんな人でした。

仕事の帰りにコンビニでアイスを買ったり、フィギュアの付いた卵型のチョコレートを買ったり...

アイスが食べたいからやチョコレートが食べたいからコンビニへ行くのではなく、ただ何となくコンビニに入り、ただ何となく「なんか買わなくっちゃ。」という心理になってしまい購入していたように思います。

他にも、スーパーに行ってお惣菜を買ったり、洋服店に行ってすでに持っている似たような服を買ったり、100円均一の店でお菓子を買ったり...。

何となく入ったお店で、ただ何となく消費する。そんな感じの無駄な買い物が多かったように思います。

「お店に寄らずまっすぐ家に帰れよっ!!」とツッコミを入れてしまいそうになりますが、当時の僕は頭の中にたくさんのモヤモヤを抱えていたと思います。家にまっすぐ帰りたくない何かを抱えていたのだと思います。

それは仕事であった色々なことを家に持ち帰りたくないと思っていたのかもしれないし、ただ単純に家に帰りたくないと思っていたのかもしれません。

色んな気持ちを抱えていたこともあってふらふらとお店に入っていたのだと思います。

そして、そのストレスを解消するための消費だったように思います。

ただ、ストレスを解消するための消費だったかもしれませんが、そんな無駄な消費を繰り返していることで家に持ち帰るモノの量は増える一方だったように思います。逆にストレスを溜める要因も作っていたように思います。

そんな僕ではありましたが、「整理・収納」を学び始めてからは、そういった消費とも向き合うようになりました。

そして消費を減らすために、家に持ち帰るモノの量を減らすために行ったのが「財布の中の整理」でした。

「財布の中を整理」することで、物理的に消費することが出来ないようにしようと考えました。

1年程前に行った実践ですが、まず財布の中身を全てテーブルの上に出します。

パンパンに膨れ上がった財布の中にはこれだけのモノが入っていました。中には期限の切れたお食事券も入っていました。(これでも少ない方ではないでしょうか...)

そもそも生活していく上で必要なモノは何なのかという事を第一に考え「整理」していきます。

そして必要ないモノと判断したモノは...

になりました。

期限の切れたお食事券や会員カード、クーポン券はゴミ箱へ。それ以外のたまに使うモノは必要な時に取り出せるように、決められた定位置で管理することにしました。

「財布の中の整理」を行った結果、財布の中身は...

  • 現金
  • キャッシュカード1枚
  • クレジットカード1枚
  • バス定期カード

のみになりました。

そして今現在、更に「整理」を進め...

現金とバスカードのみになりました。

財布の大きさも必要以上に大きな長財布から、小さなサイズの財布に変更しました。

現金も2000円までというルールを自分に課し、それを徹底するようにしています。

その結果、無駄な消費は格段に減ったように思います。

そもそも財布の中には現金が2000円しかない事と、クレジットカードがない事により高額なモノが買えないようになっています。

そして変わったのは物理的なことだけではなく、消費に対する意識も変わったように思います。

財布の中を整理したことで、消費に対する考えや向き合い方が変わりました。

自分にとって本当に必要なモノは何なのか、それを購入したことで自分に何が残せるのかという事などを具体的に考えるようになりました。

その結果、家に入ってくるモノの量はずいぶん減ったように思います。あれだけ消費を繰り返していた僕が、今では家に何も持ち帰らずに帰宅することが多くなりました。

そしてそれは、消費することだけではなく他の生活にも良い影響を与えるようになっています。

スケジュールをしっかり立てて行動が出来るようになっています。

モノが増えないことによって「収納」が上手く出来るようになっています。

そしてモノが増えず、モノが散乱しない事で「心地良く過ごす」時間が増えました。それが僕の心の安定に繋がっています。

これも僕の「モノを増やさない」工夫の一つになっています。

「財布の中の整理」をすることに不安はたくさんありましたが、慣れてしまえばこっちのもので、「整理」をしたことにより僕の生活は豊かになっているように思います。

そしてそれが「もっと生活を良くしていこう」というモチベーションに繋がっているように思います。

モノを増やさないようにするために

モノを増やさない事は「心地良い暮らし」に繋がることだと僕は考えています。

それは目に見えるモノだけでなく、目に見えないモノも含まれることで、なるべく両方のモノを増やさないことが大切だと考えています。

でも人が生活しているとモノは勝手に増え続けます。意識的に「整理」しない限り、モノは増え続けます。

だから僕は職場でも家でも「整理・収納」を意識的に行い、モノを増やさないようにしているのです。

僕は職場の机の上には何も置かないようにしています。そもそも机の上は「作業をする場所」であり、「物置」ではないからです。

机というモノと向き合い、机が持つ本来の役割を最大限活かそうと考えた結果です。机の本質を理解した上での使い方だと思っています。

以前の僕は机の上にたくさんのモノを置いて作業を行っていました。案件ごとにまとめたファイル、客先から来たFAXを入れるA4サイズのかご、何故かガチャガチャで手に入れたあごが異常に発達した動物のフィギュアなんかも置いていたこともあったように思います。その時作業をするのに必要ないモノをたくさん置いていました。

そういったモノを置いていることにより作業するスペースは限られ、ひどい時にはAサイズの用紙1枚分あるかないかくらいのスペースで作業を行っていました。

そういった状況で作業しているとたくさんの弊害が起きるようになります。

視覚からの情報が多く気持ちが落ち着かなくなり、その結果集中力が落ちてしまったり、その結果ミスが多くなってしまったり...

そして、何よりも「モノが増えた」ということが実感しにくくなることがあるように思います。

机の上がモノで溢れていることにより、そもそも自分が管理しているモノの量が把握できなくなる状況になります。そして、そういった状況になっているとモノが増えたことにも気付かない状況になってしまうのです。モノが増えたことを察知できなくなってしまうのです。

そして気付いた時にはモノが溢れている状況になります。そして、それは目に見える机の上だけでなく、目に見えない頭の中も同じようになっていくのです。

また、僕は机に備え付けられている引き出しの中も「整理・収納」するように心掛けています。4つある引き出しの1つを除いてです。

引き出しの中は、机での作業に必要なモノだけにし、その必要になったモノがすぐに使えるように、使いやすいように定位置を決めて「収納」しています。

それぞれ必要なモノが引き出しの中にあり、モノが散乱しないように「定位置管理」を徹底しています。

使った後、必要ないのであればすぐに定位置に戻すことを徹底します。「戻すのは後で良いか..」となってしまうと、その小さな積み重ねによりモノが机の上に散乱しだします。面倒かもしれませんが、一つ一つ確実に定位置に戻すことを行っています。

ただそれは一つの引き出しを除いての話であり、一つの引き出しに関しては割と適当に使っています。3段ある真ん中の引き出しがそれにあたります。

その引き出しは「とりあえず」の場所であり、忙しく仕事をしている毎日、処理しきれないモノをとりあえずそこに入れておくような場所になっています。

その引き出しの中はひどい状態で、資料が無造作に入れられている状況になっており、何の資料が入っているかは細かく把握できていない状況になっています。

もちろん、その引き出しの中に入れる前には必ず確認は行います。でもそれはあくまでも流し読み程度で、その時点で「大至急」のものでないと判断した場合はその引き出し行きになっているのです。

その引き出しの中は2週間もすれば、引き出しの中に入れることが出来ない状態になってしまいます。それだけ日常の中でモノが増えているという状況がよく分かるように思います。

だから定期的にその引き出しの中の「整理・収納」をするようにしています。2週間に1回位のペースで、その引き出しの中と向き合う時間を取るようにしているのです。

休みの日に職場に出向き、それだけをして帰る日もある位です。それくらいその引き出しと向き合う日を大切に考えているのです。

それはモノを増やさない・散乱しないようにする僕の工夫の一つだと考えています。

モノは勝手に増え続けます。その増えたモノを視覚に入らない場所に一旦「収納」することにより、普段行う作業に悪影響を与えないようにしています。そして、一旦「収納」しているモノを忘れないようにし、定期的に「整理・収納」しているのです。

忙しい毎日。モノを増やさないようにすることで、ある程度自分のペースを維持することが出来るようになると僕は考えています。そしてそれが自分にとっての「心地良い暮らし」に繋がるようになると思っています。

「整理」しにくいモノ

モノが多いと気持ちが落ち着かなくなります。

そして、気持ちが落ち着かなくなる事により、心が乱れ、全てのことに支障が出てくるようになると思います。

だから僕はなるべくモノが増えないようにすることが大切だと思っています。そして、毎日「整理」することが大切だと思っています。

しかし、人は日々生活している中でたくさんのモノを家に持ち帰ることになります。

それは目に見えるモノも、目に見えないモノも含まれます。

極論を言うと意識しておかないとモノは勝手に増えていくのです。

特に目に見えないモノに関しては気付かないうちにたくさんのモノを持ち帰ることになっているのではないでしょうか。

例えば目に見えるモノであれば...僕は小学校で働いていますが、毎日たくさんのお便りを配布します。多い時なんかは一人7、8枚は配布することもあります。

兄弟がいる家庭ではそれが2倍3倍になり、下手したら一日20枚以上のお便りが家に持ち帰られることになるのです。

それが10日分、100日分と換算するとたくさんのプリントを持ち帰っていることになります。

小学生のいる家庭では、お便りだけを見てもかなりの数持ち帰ってくることになりますが、他にも図工の作品、週末になると体操着や給食エプロンなどたくさんのモノを持ち帰ってくることになります。

子どもだけではありません。大人も朝家から出る時と仕事を終えて家に帰って来る時では持ち物が変わっている、持ち物が増えているという事はあるのではないでしょうか。

仕事帰りに買い物をしたり、駅前で配られているティッシュを貰ったり、家に仕事を持ち帰る場合、必要になる資料を持ち帰ったり...たくさんのモノが増えるのではないでしょうか。

人が自然に生活しているだけで、モノは生活の中にたくさん入ってくることになっているのです。それを意識して生活しておかないとモノは増え続け、溜まっていく一方になってしまうのです。

それは目に見えるモノだけではなく、目に見えないモノにも言えることだと思います。むしろ目に見えないモノの方が持ち帰る量は多いのかもしれないと僕は思ってしまいます。

僕は昨日、学校での生活に不安を抱えている子の保護者との面談を行いました。色々な気持ちを抱えている子どもやその両親との話の中でたくさんの気持ちを聞くことが出来ました。

その子自身が抱えている気持ちや、両親のその子への思いや考えなどたくさんの話を聞くことが出来ました。

そして、その話の中には学校に対してや僕個人に対する不満の気持ちも含まれていました。僕にとっては耳に痛い話や「ちくしょう!!」と思ってしまうネガティブな気持ちになってしまう話もありました。

もちろんその話に対しては不満の気持ちだけではなく、反省する気持ちや自分に返す気持ちもあったように思います。子どもへの関わり方や自身の考え方を変えなくてはいけないと思う部分もあり、たくさんの気付きがあったように思います。

ただ、朝家から出る前と帰ってからでは頭の中にあるモノの量は格段に変わっていたように思います。保護者との面談があることは朝の時点で分かってはいましたが、それでも面談を終えてからの僕はたくさんのモノを抱えて帰宅したように思います。

それは自分ではコントロールしにくい事のように思います。

目に見えるモノであれば、ある程度コントロールしやすいのかもしれません。買い物の量もしっかり計画を立てることで必要最小限にすることが出来ると思います。子どもが持ち帰るお便りに関しても、たくさんの量を持ち帰ったとしても、しっかり「整理・収納」さえしていればある程度量のコントロールは出来るようになると思います。

ただ、目に見えないモノに関しては、目にすることが出来ない分、どれくらいの量なのか、どれくらいの大きさのモノなのかが把握しにくいのです。

大きな買い物袋を手に持っている人を見たり、重たそうなランドセルを背負っている子どもを見るとだいたいの持ち帰っている量は把握することは出来ます。自分自身に関しても簡単に把握することは出来るように思います。

でも、目に見えないモノの量は周りから見ても中々把握することは出来ません。むしろ、自分自身も把握できない場合がほとんどのように思います。

それは、目に見えるモノは自分主導で増やす減らすが選択しやすいからだと思います。

逆に目に見えないモノに関しては、周りから与えられることが多い事、自分の中でどれくらい大きなものなのかが把握しにくい事、どれくらいの量なのかが把握しにくい事があるからコントロールしにくいのだと思います。

そして、目に見えにくい分、形としての「整理」がしにくいのだと思います。

今日の朝も引き続き昨日の事を抱えながら朝の時間を過ごしています。

何がきっかけで、どのタイミングで「整理」することが出来るのか分からないモノを抱えながら今日一日を過ごすことになるのです。