整理収納アドバイザー ポレポレ日記

40代 おじさん整理収納アドバイザー

人との関わり方

どんな人に対しても丁寧に関わることを大切にしようと考えています。

その気持ちは言葉遣いに表れると思っています。

自分より年上の人にはもちろんですが、自分よりも年下の若い世代の人にも意識的に丁寧な言葉遣いを心掛けています。

むしろ、年下の人と話すときには「丁寧に、丁寧に...」と考えながら話しているようにも思うくらいです。

なぜ大切にしているかと言うと、「良い関係」を築きたいと考えているからです。

そして、「良い関係」を築くことで、自分の「自尊感情」を高めたいと思っているからです。

たくさんのストレスを抱えながら生活している現在の社会。その社会の中では常にギスギスやピリピリを抱えながら生活しているような状況だと思っています。

そんな中でも「心地良いな~。」と思える時間を少しでも多く自分に保障したいと考えています。

「整理・収納」を意識して生活し、自分にとって「必要なモノ」だけに囲まれる生活をすることも「心地良い暮らし」に繋がることだと思っていますが、自分に関わる人たちと「良い関係」を築くことも同じくらい「心地良い暮らし」に繋がる事だと考えています。

今の社会では人との関わりを断つことが出来ないくらい、人は一人では生きていくことが出来ない社会だと思います。

僕が今こうしてパソコンでブログを書くことが出来るのも、たくさんの人の努力の上に成り立っていることです。

朝起きた時に美味しいコーヒーを飲むことが出来るのもたくさんの人のおかげです。

そういった人たちに対する感謝の気持ちを忘れてはいけないと僕は思っているし、その気持ちを丁寧な態度を持って示していくことが大切だと思っています。

40歳を過ぎた僕。生活の中で関わる人たちも自分より年下の人がずいぶん増えてきたように感じています。

何かを買いにお店に入っても、何かのサービスを受ける時も、仕事で関わる人たちも年下の人の比率が多くなってきているように感じます。

これからもっとそういった事を感じることが増えていくことだろうと思います。

そうなっていく中では、「丁寧に関わる」ことがより大切になって来るだろうと思っています。

自分がそうでした。自分より年上の人が、若い自分に対して丁寧に関わってくれていることに嬉しさを感じていました。何か認められている、尊重されている、大事に思ってもらえていると感じていたように思います。

そういった感情が相手への信頼に繋がっていたし、「一緒に頑張りたい」という気持ちに繋がっていたように思います。

そして、それがその人との「良い関係」に繋がっていたのだと思います。

先日職場で、ベテランの職員が担当する打ち合わせがありました。

そのベテラン職員がどういった気持ちでその打ち合わせに臨んでいたのかは分かりませんが、打ち合わせの中で横柄だと感じる態度がとても目につきました。話し方であったり、時間に対する配慮のないところです。

まず話し方です。常に相手より上の立場に立っているという気持ちが話し方に表れているような感じでした。

その話し方には丁寧さが全くといってありませんでした。良い言い方をすれば、親しみやすい関西弁といった感じかもしれません。倖田來未さんが話すような感じです。

倖田來未さんの事を否定する気はありませんが、その時のその職員の話し方には違和感を感じたし、自分たち年下の事をどう思っているのかな?と感じさせる話し方だったように思います。

そして、更に横柄だと感じたのが時間への配慮のなさでした。

始める時間も予定していた時間をオーバーしていたし、声を掛けるまで始めようともしませんでした。

打ち合わせに参加する中では年長者の部類に入る僕であったため、代表して「そろそろ始めませんか?」と声を掛けると、「せやな。」と一言...。僕の中ではあり得ません。

それぞれやるコトはたくさんあります。その職員もやるコトに追われていたのかもしれません。でも、そうであったとしても打ち合わせを主催する側の人間はそういった状況を配慮すべきだと思います。そして、経験豊富な自分たちとは違い、若い人たちは慣れない中で必死に仕事をしています。そういったことにも配慮すべきだとも思います。

そして、一番許せなかったのが定時を回っても普通に打ち合わせを継続して行っていることです。急ぐこともなく、横柄な態度のまま打ち合わせを進めているのです。

恐そんなことを感じていた僕、恐らく態度に表れていたように思います。良くない態度だったのかもしれませんが、「早退社」を大切に考えている僕からするとすごくしんどい時間になっていました。

僕はどんな人にも丁寧に関わりたいと考えています。それは相手との関係を良くしたいと思っているからです。ただ、それは基本的な考えであって、相手によってはどうしてもそうなれない場合もあるのかもしれないとか思ってしまいます。

その職員に対しては今も丁寧に関わるようにはしています。しかし、何かモヤモヤを抱えてしまっている自分がいます。

今後も同じように丁寧な態度で関わることができるのか、今の自分には自信がありません。 そんな自分はまだまだなのかなと、自分を見つめ直すきっかけになったように思います。

どんな人に対しても

僕は基本どんな人に対しても丁寧に関わりたいと考えています。

丁寧に関わる...それは相手にリスペクトの気持ちを持つという事です。

相手を軽んじたり、下に見たりすることなく、相手を尊重する気持ちを持つという事です。

相手が年長者であっても、自分より若くても関係はありません。どんな人にも同じように接することを心掛けています。

その丁寧な関わりの中には、言葉遣いも含まれます。

相手が年長者はもちろんのこと、大学を出たての新卒の職員のような若い世代の人に対しても丁寧な言葉遣いを心掛けています。それも丁寧に関わることに繋がると考えているからです。

社会人として生きていく中で、相手に対してリスペクトの気持ちを持ち、相手を尊重しながら関わることはとても大切な事です。

相手との関係を良好なモノにするためにも必要なコトだろうし、相手を大切に考えることは自分の価値を保つためにも必要なコトだとも思っています。

あくまでも僕の考えであって、それが正しいかどうかは分かりませんが、僕はこういった事は大切にしたいと考えているし、今までたくさんの経験を積み重ねてきた結果、行きついた考えでもあるようにも思っています。

体育会の部活の世界で育ってきた僕。上下関係が厳しく、どんな先輩に対しても意見を言うことなんか許されない世界で生きてきました。そして、自分が先輩の立場に立った時には同じように後輩に対して偉そうに振舞っていた僕であったように思います。

その世界の中には理不尽なこともたくさんあったし、納得できない事もたくさんありました。

でも、その時はそういった状況を楽しめていただろうし、何の違和感もなく過ごすことが出来ていました。体育会の部活とは「そんなもんだろう」という意識が無意識にあったのだと思います。だからさほど負担にも思っていなかったし、ストレスを感じることもほぼありませんでした。

でも社会に出てからたくさんの人と出会う中で、そうではなく、相手を尊重する気持ちを持つことが大切なんだなと思う場面とたくさん出会ってきました。

たくさんの物事に追われ、たくさんのストレスを抱えながら過ごす社会。そういった社会の中では人との関わりは避けることが出来ないモノです。

その人との関わりの中では、学生時代の気楽な関りだけではなく、互いにストレスを抱えているギスギスした、ピリピリした関りがたくさんあります。

社会で生きていくためにはたくさんの責任を背負いながら生きていかなければなりません。学生時代のような気楽さだけではその責任を背負うことは出来ません。

そこにオンオフはなく、常に緊張感をもった状態のような感じです。責任を背負うというのはそういうことであり、学生時代と大きく違うのはそういったことだと僕は考えています。

そういった緊張感が常にある状態が、人間関係のギスギスやピリピリを生み出しているのだと思います。そしてそれは社会に慣れていない若い世代が多く抱えていることでもあるように思っています。

だからこそ、年長者だけでなく、若い人たちに対する尊重の気持ちも大切にしなければならないし、丁寧な関わり方が大切だと考えています。

それは相手のためでもあり、自分のためでもあると思っているし、互いにとって必要な事だと思っています。

相手を尊重し、丁寧に関わることで良い人間関係を築くことが出来ると僕は考えています。そしてそれは言葉遣いなどや関わり方に現れてくるように思います。

どんな人にも敬語を使ったり、どんな相手との約束も大切にしたり、時間を守ったり。一つ一つと丁寧に向き合うことが大切だと思っています。

そして、若い世代の人たちが気持ちよく過ごせるように配慮することも僕たち年長者の立場に立つ人間には大切なコトではないかと考えています。

そして、それが出来る自分はどんな人も尊重出来る「心に余裕がある自分」になれている、という自尊感情を高めることに繋がるように思います。

だから僕は基本はどんな人にも丁寧に関わりたいと考えています。それが相手や自分の「心地良い暮らし」に繋がると思っているからです。

ただ、あくまでも基本はですが...。

期待できない「精神的効果」

「整理・収納」を通して感じることが出来る3つの効果。

それは良い意味で効果を感じることが出来るのが理想です。

「整理・収納」をすることで、時間短縮が期待できる。(時間的効果)

「整理・収納」をすることで、貯金に回すことが出来るお金が増える。(経済的効果)

「整理・収納」をすることで、心に余裕が出来る。(精神的効果)

そういった効果が期待できるようになります。そして、それを通して「心地良い毎日の暮らし」を実現することが出来るのです。

僕は今、坊主頭にするかどうかで悩んでいます。

「整理・収納」を常に意識して生活する中で、髪の長さと向き合い、今の長さが本当に必要なのかという事を悩んでいるのです。

僕が考える「整理」とは、必要なモノだけにすることです。不要なモノは処分し、必要なモノだけに囲まれる生活が理想と考えています。

その観点に立つと、毎朝セットすることにストレスを感じていたり、白髪が目立ち始めているここ最近。坊主にする方が良いのではないかと考えてしまいます。

昨日は、坊主にすることで期待できる時間的効果と経済的効果の事を投稿しました。

坊主にした場合のシュミレーションをするだけで、たくさんの効果が期待できそうです。ただ、一歩踏み込めないのは「精神的効果」が今一つ期待できないのではないかと考えてしまっているのです。

40歳を超えた中年の僕でありますが、こんな僕でもある程度は外見に気を付けようと考えています。

周りの人に不快感を与えないように、常に清潔感は保っておきたい考えているし、子どもたちの前に立つ以上、ある程度良いイメージを持たれるようにしたいと考えています。

もちろん外見よりも内面の方が大切です。どれだけ外見が良くても、内面が未熟であれば人との良い関係は築くことが出来ないと思っているし、「心地良い暮らし」なんて実現できないと思っています。

でも、ある程度の外見を保つことは大切な事だと僕は思っています。

そういったことから、坊主頭に一歩踏み込めないでいる自分がいるのです。

坊主頭にすることで、怖いイメージを相手に与えてしまわないか、清潔感を保つことが出来ないのではないか(今もさほど清潔感はないかもしれませんが...)などを考えしまっているのです。

そして何よりも、坊主頭が僕に似合わないのではないか...という事にも引っ掛かっているのです。

学生時代に坊主頭にしていた時は、割と評判は良かったです。頭の形もキレイだと言われていたし、顔の輪郭とのバランスも坊主に向いていると言われていました。

しかし、10年程前に心機一転、坊主にした時は、周囲の人から微妙な反応をされたことを覚えています。変な空気が流れていました。

それはもしかしたら、坊主が似合っているとかどうかというよりも、坊主にした動機が微妙過ぎて引いていただけなのかもしれません。仕事も辞めて、更に坊主頭になっている。周りから見たら可哀そうな人に映っていたのかもしれません。

更に当時の僕は学生時代よりも、今よりも太っていて顔の形も顎のあたりに脂肪がついており、とても坊主頭に向いているような輪郭はしていなかったように思います。頭の形も何故か学生時代のそれとは違い、頭の上を大きなハンマーで叩かれたような形になっていました。

ぺったんこです。

だから、ただ似合っていなかったようにも思います。今思いだしても目が当てられないような感じです。だから、当時の僕は髪が伸びるまでストレスを抱えていたように思います。

そんなことを思い出していると、今の自分はどうなんだろうと考えてしまいます。

「似合う」という絶対の自信があるのであれば、すぐにでも一歩踏み出すことは出来ると思うのですが、10年前の自分を思い出す度に「うっ...」と考え込んでしまい、一歩踏み出すことが出来ないでいます。

「時間的効果」や「経済的効果」はたくさん期待できるように思います。でも「精神的効果」が期待できないでいます。

坊主頭にしたことでストレスを抱えてしまう事があっては、何のために「整理」をしたのかが分かりません。

僕が考える「整理」とは必要なモノだけにすることです。持っているだけでストレスを感じるものであればそれは不要なモノなので処分する必要があると思います。

でも逆に「整理」したことでストレスを感じてしまうのであれば、それは「不要」ではなく「必要」なモノのように思います。

「整理」したことで感じることが出来る3つの効果。その一つでも感じることが出来ないのであれば、それは整理しない方が良いモノなのかもしれません。

もう少し坊主頭にするかどうか、髪の毛を「整理」するかどうかと向き合い続けたいと思います。

整理してもいいかなと思っているモノ

最近、整理してもいいかなと思っているモノがあります。

中々、思い切って整理できていないモノですが、考えれば考えるほど、「整理」すべきモノではないかと考えています。

それが...髪の毛です。

全て抜いてしまおうとかそういった訳ではありません。禿げたいという訳ではなく、今よりももっと短くしようと考えているくらいのモノです。量ではなく長さです。

所謂、坊主頭でも良いんじゃないかな~と思っているのです。

学生時代には頻繁に坊主頭にしていました。というかさせられていました。

集合時間に遅刻すると、坊主に...。

練習に身が入ってないから坊主に...。

部員が何か問題を起こす度に連帯責任で坊主に...。

とにかく何か理由を付けて、坊主にさせられていますした。

高校一年生の間なんかは一年間ずっと坊主頭だったように思います。

今思えば理不尽な事だったのかもしれませんが、言われた通りにしていた当時の僕。

そんな理不尽もどこか楽しめていたように思います。そんな理不尽の中でも頑張っていることに酔っている自分がいたり、そういった理不尽を同級生の仲間たちと一緒に乗り越えようとしていることに一種の連帯感のようなものを感じていたのだと思います。

今となっては良い思い出だし、良い経験になったように思っています。

そういった理不尽を乗り越えたことで、今の自分があるのかもしれません。もしかしたら若い間に経験する理不尽は見方によっては「必要なモノ」なのかもしれないとか思ったりもします。

さて、話を坊主頭に戻すと、最近であれば10年程前に一度坊主頭にしました。

会社を辞めて、心機一転新たなスタートを切ろうとしていた時期でした。その時の僕は、たくさんのモノを「整理」したように思います。

営業マンとしてバリバリ仕事をしていた当時の僕。営業マンの戦闘服であるスーツやネクタイ、シャツ、革靴などなど。そういった目に見えるモノだけでなく、目に見えないモノも「整理」しました。

当時の僕にはそれなりのプライドがありました。営業マンとしての自信もあったように思います。そういったモノも「整理」しました。すごく辛い時期でしたが、ダメだった自分の全てを受け入れて「整理」をしました。僕にとって辛く大きな挫折だったように思います。

そのたくさんの「整理」をした中に髪の毛も入っていました。たくさんのモノを整理する中で、髪の毛の整理を決断し坊主頭にしたのは、「心機一転頑張ろう!!」や「一から出直そう。」という気持ちの表れだったように思います。

当時の僕はそうでした。心機一転の坊主だったように思います。

では、今の僕はというと、心機一転とは全く違うように思っています。

ただただ、スタイリングが上手く出来なかったり、白髪が目立ち始めて、「嫌だな~」という気持ちです。髪があることが「面倒だな~」と思っている自分がいるのです。

僕が考える「整理・収納」とは、必要なモノだけにし、その必要なモノの定位置を決めて使いやすくすることです。

そして、その「整理・収納」を徹底することで3つの効果が現れます。「時間的効果」と「経済的効果」と「精神的効果」です。

この3つが上手く嚙み合うことで僕の生活は「心地良く」なっていくと思っています。

では、今僕が髪の毛を「整理」した場合どういった効果が現れるのでしょうか。(ここでいう整理は、長さを短くすることを指します。)

まず「時間的効果」ですが、これは間違いなく効果覿面のように思っています。まず坊主にすると洗髪の時間が大幅に減ることになります。ドライヤーをしている時間も大幅に減ります。というかドライヤーをする時間自体が無くなってしまいます。バスタオルで「サッ」と拭くだけで乾いてしまいます。そして、最近の僕が最もネックになっているスタイリングの時間が大幅に減ることになるように思います。こういったことから、時間的な効果は期待できそうです。

次に「経済的効果」です。ここでも効果覿面のように思います。まず、シャンプーの使用量が大幅に減り、購入する頻度が減るようになります。ドライヤーをする機会が無くなることで電気代の節約になります。また、水道代も減ることになると思います。そして、スタイリングの必要が無くなるため、スタイリング材も必要なくなります。散髪に行く頻度も減るようになります。坊主にすることで多くの経済的効果が現れるようになります。もしかしたら一番の効果は「経済的効果」なのかもしれません。

そして最後に「精神的効果」です...。

ここなんです...。今僕が坊主に一歩踏み込むことが出来ていないのはこの「精神的効果」がさほど期待できないのではないかと考えているのです...。

そんなことを考えていることが僕の思う「整理・収脳」です。髪を短くすることと向き合うことが「整理・収脳」だと思います。

では、「精神的効果」のどこに引っ掛かっているのかというと...それは後日投稿させて頂こうと思います...。

落ち着きを手に入れるために

「整理・収納」を通して、自分にとっての「心地良い暮らし」を目指しています。

所有するモノを少なくし、モノの定位置管理を徹底することで、日々の暮らしの中でのストレスは減り、毎日を快適に過ごすことが出来ると思っています。

「整理・収納」には3つの効果があります。

  • 時間的効果
  • 経済的効果
  • 精神的効果 です。

僕は「整理・収納」を意識して生活していく中で、この3つの効果をたくさん感じてきました。

自分にとって「心地良いな~」と感じる時間をたくさん取ることが出来ているのは、「整理・収納」をしているからです。(時間的効果)

無駄な買い物が減り、モノの増加を防ぐ事が出来ているのは、「整理・収納」をしているからです。(経済的効果)

不測の事態が起こっても、心を大きく乱すことなく、落ち着いて行動することが出来ているのは、「整理・収納」をしているからです。(精神的効果)

モノが少なく、自分の所有しているモノをしっかり把握できていることで、生活に落ち着きがあり、心が乱れることは減ってきているように思っています。

年を重ねていく中で、周りが見えるようになってきたという事をよく聞きますが、それは知らず知らずの内に必要なモノが見えるようになってきているという事でもあると僕は思っています。(年を重ねても何も変わらない人もいるかもしれませんが...)

若い時より落ち着いて行動できるようになるのは、必要なモノが見えていて、すべきことが明確になり、思考がシンプルになっているからだと思います。

それは知らず知らずの内に「整理・収脳」が出来るようになってきているという事でもあると思います。

頭の中で、必要なモノを選別し、その必要になったモノをいつでも使えるように収納していく。そういったことが年を重ねていく中で上手に出来るようになっていくのだと思います。

目に見えないモノの管理が上手になっていく。だから、年を重ねていく中で落ち着きが出てくるのだと思います。

では、人は年を重ねることでしか「落ち着き」を手に入れることは出来ないのかというと、そういう訳ではないと僕は思っています。

思考をシンプルにし、落ち着きを手に入れるためには「整理・収納」が効果的だと僕は考えています。

先述の通り「整理・収納」には3つの効果があります。

この3つの効果が上手くかみ合うことで「心に余裕」が現れ、どんなコトにも落ち着いて行動が出来るようになります。

そこに年齢は関係なく、どんな人でも「整理・収納」を徹底することで「整理・収脳」に繋がり、それが「心の余裕」に繋がるようになってきます。

モノが少ないことでやるべきことが明確に見えるようになります。モノが多いことは思っている以上に人の心を乱すことに繋っています。

視界の中にたくさんのモノがある場合とそうでない場合では、取り組む精度やその仕上がりに大きな違いが出てきます。取り組むときの効率にも大きな違いが出てくるように思います。

何度も同じ間違いをしたり、何度も同じことを繰り返したり、遠回りをしたり、そういった小さな積み重ねが人の生活を乱していくのだと思います。そして、「心地良い暮らし」が自分から離れていくのだと思います。

モノを減らすという事は、ただモノが減ったという意味だけではありません。もっと大きな意味があり、たくさんの意味があります。

モノが減りその分のスペースが空くということだけではなく、心に余裕が生まれ、落ち着いて行動することに繋がります。そして、3つの効果をたくさん感じることが出来るのだと思います。

「整理・収納」を意識して生活する中では、モノが減って「スッキリした~」という爽快感を感じるだけではありません。

時間の管理が上手くいくようになります。

無駄な買い物が減り、経済的な無駄が省かれます。

そして心に余裕が生まれ、落ち着いて行動が出来るようになってきます。

「心地良く暮らす」ことを実現するためには、年を重ねてるだけでなく、自分の生活と向き合うことが大切です。そしてその向き合う中に「整理・収納」を絡めることでより自分にとっての「心地良い暮らし」が近づいてくるのだと思います。

「整理・収納」の本質

職場の数名の人には僕が「整理・収納アドバイザー」の資格を持っていることを話しています。「整理・収納アドバイザー」と言っても何の活動もしていない、資格を持っているだけであるという位な感じですが...。

でも、そんな感じで伝えていたとしても、やはり注目はされてしまいます。

確かに職員室の机の上には何も置いていません。

職場から帰る時も手には何も持っていません。(手ぶらで通勤しています。)

そんな僕だから周りから見ると、「全てにおいて整理・収納が徹底されているのだろう。」や「教室なんかもきれいに片づけられているのだろう。」なんて思われているのかもしれないとか思っています。(自意識過剰かもしれませんが...。)

実際、教室を見せて欲しいと言われることもたまにあるし、授業を見せて欲しいといったこともよく言われます。

でも実はそうではなく、アドバイザーの資格を持ってはいますが、収納のセンスはないと思っているし、整理もそんなに上手に出来ているようには思っていません。

自分の事に関してはある程度は出来るようになってきてはいますが、それが教室の中や教室の子どもたちに活かすことが出来ているかというとそうではないように思っています。

教室の中にはたくさんの子どもたちがいます。それぞれ個性を持った子どもたち。それぞれの家庭で育ってきた子どもたち。様々な価値観を持って学校で生活をしています。

そういった教室の中では、僕が思う「心地良い環境」が全ての子どもたちに当てはまるかどうかは分かりません。

例えば、教室の後部に黒板があります。僕はその黒板には何かを掲示したり、何かを書くことはしたくないと考えています。そこにたくさんの情報があることで、心が落ち着かなくなるように思っているからです。

また、掲示の仕方にもよるのかもしれませんが、掲示物が増えてしまうことで視覚から入る情報量が多くなってしまい、大切にしたい事が見えにくくなると思っているからです。

でもそれはあくまでも僕の価値観であり僕の考えです。教室での活動の中心は教師である僕ではなく子どもたちです。

その子どもたちにとって心地良く、過ごしやすい環境に調節してあげることが教師の役割だと考えています。

もちろん僕の思いを話すことはあります。モノは必要なモノだけにすべきであることや、モノの定位置を決めておくことの大切さなどです。

ただ、教室の環境を整えることに関してはあくまでも子どもを中心に考えるべきであると考えています。

本当はもっとモノを減らしたいと思っています。教室の中の掲示物も減らしたいと思っています。もっと定位置管理を徹底したいとも思っています。もっともっと僕が考える「整理・収納」を徹底したいと考えています。

でも子ども中心で考えているとそうではなく、ある程度モノは増えるだろうし、掲示物もある程度は増えてしまうのが現状のように思います。

だから、「整理・収納が徹底されているんだろうな~。」なんて思って僕の教室に来た同僚は「あれ...なんか違う...。」なんて思ったりするのだろうと思います。

それは子どもを中心に考えているから仕方のない事のように思います。

今の所、僕の教室にいる子どもたちは大きく乱れることなく学校での生活を送ってくれているように思います。もしかしたら「つまんねぇ~。」なんて思っている子も数名いるかもしれませんが...。

それはある程度「整理・収納」が出来ていることで、子どもたちの生活の中で心が乱れることが少ないからだと思います。

僕が考える「整理」とは必要なモノだけにすることです。「収納」とはモノの定位置を決め、モノを使いやすくすることです。

学校は人との関わりを持ったり、勉強をすることがメインの場所です。そのメインになることが出来なくなる不要なモノは持ってきてはいけないし、持ってくるべきではありません。今のところそういったモノは持ってこないように徹底することが出来ています。

子どもたちが学校に持ってきているモノを「収納」することもある程度は出来ているように思います。

靴、ランドセル、教科書、絵具セット、習字セット、体操服、今であればプールセットや傘などです。そういったたくさんのモノの定位置管理を徹底することが出来ています。

定位置も僕は子どもたちと相談しながら決めることを心掛けています。始めから大人が決めるのではなく、子どもたちにとって何が一番いいのかを子どもたちと一緒に決めるようにしています。

その結果、僕が思う「心地良い環境」にはなっていないように思っています。周りから見てもそんなに「整理・収納」が徹底されている教室にはなっていないように思います。

でも「整理・収納」の本質からは大きく反れてはいないように思います。

それは子どもたちにとって不便なく過ごすことが出来る範囲の「整理・収納」が出来ているからです。「整理・収納」とはそんなもので良いのかもしれません。

学校での生活の中心は教師ではありません。子どもたちです。

その子どもたちを中心に「心地良い環境」を一緒に作っていくのが「整理・収納」の本質だと僕は思います。そして、そのそもそもを忘れないことが大切だと思っています。

自分の大切にしたいこと

人にはそれぞれ思いや考えがあります。

それは人によって違います。

自分と比較して、その違いがたくさんある人もいれば、違いが少ない人もいるように思います。

いわゆる自分との「価値観の違い」というやつです。

生活スタイル、人との関わり方、仕事への考え方、お金の使い方などなど、人にはそれぞれの物事に対する価値観があります。

早寝早起きを大切にしている僕もいれば、夜遅くまで活動している人もいるように思います。

一人でも平気な僕もいれば、常に誰かと一緒にいないと不安になる人もいるように思います。

仕事は生活の一部と考えている僕もいれば、仕事は生活の全てであると考えている人もいるように思います。

お金はある程度貯金しておいた方が良いと考えている僕もいれば、ある時に使ってしまえばいいと考えている人もいるように思います。

どちらが正しいかは分かりません。正解は人によって違うのかもしれないし、どちらを選択していたとしても、良い方にも悪い方にも転ぶのかもしれません。

でもそう考えたとしても、自分が大切にしたいと思うことを大切にしたいと思うのが人間だと思います。そして、そうあるべきだと僕は思っています。

僕は早寝早起きにすごく価値を感じています。朝活動する方がずっと効率的だし、朝の方が一つ一つの物事にしっかり向き合うことが出来ると思っています。みんな朝型の生活をしたらいいのになと考えているくらいです。

早く仕事を終えて帰ろうとする僕の姿を見て、「その朝方の生活スタイル良いですね。自分もそんな風にしたいです。」なんて声をかけられることもたまにありますが、「そうしたらいいのに...。」といつも思います。

でも、きっと本気でそう感じているわけではないだろうし、仕事への考え方も違うのだと思います。だから僕は相手に対して「こうするべきだ!!」なんて言わないようにしています。あくまでも僕の働き方は僕に合っているのだと思う程度でしか言わないようにしています。

逆に「もっと仕事に対する比率を上げろよ!!」なんて言われると、すごく嫌な気持ちになるだろうし、「ほっとけよ!!」なんて考えると思います。

お金の使い方でもそうです。あったらあった分使う人もいるでしょう。逆に生活で切り詰めるだけ切り詰めて、給料のほとんどを貯蓄に回す人もいるように思います。

他にも稼いだお金を元手に投資をする人もいるだろうし、自己投資にたくさんのお金を使う人もいるように思います。

そんな僕はある程度貯金しておかないと不安になる人です。月々のお給料をたくさん貰うことが出来ていない僕であるため、ボーナスである程度まとめて貯金するようにしています。二人の子どもたちの学費の事がそろそろ気になりだしているからです。

しかし、そのボーナスも貰ったら全て使い切る人もいるように思います。それが間違っているのか、正解なのかは僕には分かりません。

生活スタイルも、仕事への考え方も、お金の使い方も人それぞれ違いがあります。

その違いの中に正解はあるのかもしれないし、ないのかもしれません。そしてその正解は人によって違うのかもしれません。

大切なのは自分が大切にしたい事を大切にしようとすることであり、そもそもその大切にしようとしていることが自分で把握できているかどうかだと思います。

迷いがあり自分の大切にしたい事が明確でない場合、その人の生活に安定感はないように思います。

僕はどうなんだろうと思います。僕にはその大切にしたいモノが明確にあるのか。本当に今思っていることが自分の大切にしたい事なのか。自分で大切にしたいことが把握できているのか。

もう一度自分と向き合おうと思います。心を落ち着けて、心を整えて、「整理・収納」を行った上で向き合おうと思います。

もしかしたら、新しい価値観が自分に生まれるのかもしれません。